2011年12月12日月曜日

56:国会事故調査委員会と高木仁三郎さんの想い出

 昨日、定期的に送られてくる信州の田中洋一さんの「伊那谷から」の報告が届き、素晴らしい内容なので読者のみなさまにも紹介したく、今回も著者のご承諾を得て全文を掲載させていただきます。
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伊那谷から 154        (2011年12月10日)

 東京電力福島第1原発の事故原因の解明に取り組む国会の事故調
査委員会が8日発足した。
原因はこれまでの報道で何となく分かった気になっていたが、そう
ではないと思い知らされた。政府とは独立の立場で、国会が独自に
事故調を設置するのは今回が初めてということも知らなかった。来
年6月までに報告書をまとめる。
 事故調は10人の民間委員から成る。報道ではノーベル化学賞の田
中耕一さんが注目されたが、原子力は専門外だ。私が事故いらい注
目している方々が3人いる。石橋克彦さんは地震学者。地震列島に
原発を造る危険性を以前から指摘し、放射能災害と通常の震災とが
複合・増幅し合う「原発震災」を強く警告してきた。2005年には衆
院予算委員会の公聴会でも同じ指摘をした。公の場での発言は残念
ながら生かされず、その6年後に現実のものとなる。
 田中三彦さんは科学ジャーナリスト。この秋、信州白馬の市民集
会で講演を聞いた。事故の概要はこうだ。炉心の冷却が利かなくな
って、燃料棒の温度が上昇し、内部からヨウ素やセシウムなど放射
性物質が溶け出した。それでは、冷却を止めた原因は何か。東電や
原子力安全・保安院は、津波の衝撃で配管が壊れたため、と説明し
ている。だが田中さんは津波以前に地震の揺れで、複雑な配管が壊
れたからではないか、と考えている。冷却水の水位や原子炉の圧力
の経時変化から、可能性が推測されるそうだ。
 原因が津波でなく地震と判明すれば、稼働中の原発への影響はは
るかに大きい。中部電力浜岡原発などの津波対策の強化だけでなく、
原発の耐震性そのものを見直す必要が出てくるからだ。
 「真相は原子炉に人が入って、圧力容器や配管を一つひとつ見て
回らなければ分からない」と田中さん。もちろん、それまでに10年、
20年とかかる。今の段階では、原因は津波とも地震とも特定し切れ
ないという。「だからこそ、東電や政府は今、根拠となるデータを
きちんと示すべきだ」と力説した。事故調は国政調査権を持つ。デ
ータを原子力ムラから引き出して、解明を進めて頂きたい。
 5月の衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会で、放射線
の危険性について語った崎山比早子(ひさこ)さんにも触れたい。
いわゆる安全基準は社会的・経済的な事情から決められたと説明し、
「特に妊婦や子どもは放射線を浴びないように、移住も含めてあら
ゆる努力をすべきだ。国会議員は力を尽くしてほしい」と訴えた。
放射線医学の専門家だが、科学・医学の知見を振り回さないのは、
市民科学者の育成に取り組む高木学校のメンバーだからか。
 その高木学校は、反原発運動を支えて2000年に他界した高木仁三
郎さんが提唱した。彼こそ最も事故調に加わるべき方だった。

  田中 洋一
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田中さんのコラムは6月にも転載させていただきました;
http://tkajimura.blogspot.com/2011/06/blog-post_12.html
  
 拝読し、日本の国会てもようやくまともに事故の調査か出来るかもしれないと思い、多少の期待をもたらす朗報として受けとめたいと思います。 それよりもこの報告の終わりの高木仁三郎さんが「彼こそ最も事故調に加わるべきであった」との記述を読み、おもわず涙がでました。わたしも、2000年の10月に高木さんがわずかか62歳で亡くなられたあと非常に喪失感が大きく、何かにつけて高木さんの想い出を書いたものです。 しかし、今年の福島の事故に面しては、格別に高木さんのことが強烈に思い出されました。 ずば抜けた能力と行動力で、日本の反原発運動の先頭に立ち、大きな業 績を残され、影響力のあった人物でした。だから今年は日本でだけでなく海外でも今年は彼を惜しむ声が強いのです。このプロブでも紹 介しました 環境省原子炉安全委員会のミヒャエル・ザイラー氏や、放射線防護 協会のプルークバイル博士などとも合えば、高木さんの話が出るのです。
「高木さんが今いてくれたら」と思う人は非常に多いのです。田中さんのコラムを読んでまた哀しくなったのはそのせいです。高木さんの元気な頃のドイツの盟友であったこのふたりの活躍ぶりを側で見るたびに、またこのような日本からの報道に接するたびに、避け難くこの思いはつのります。なぜならもしお元気であれば、今頃は一 日も早い日本の全核施設の廃止に向け、先頭に立って政府を突き上げ、目を奪うような大活躍をされていることは間違いないと思うからです。

そこで今回は、あまり知られていない高木さんのプライベートな一面を想い出として書いておきます。 前55回のプルークバイル氏の勧告にも「日本の科学者に市民の側に立つように」との呼びかけがありましたが、これは氏がよく知る高木さんが主張し、生き様として貫いた「市民科学者であって欲しい」との 要請なのです。亡くなる一年前の1999年9月に出された岩波新書は『市民科学者として生きる』です。本書は重病を押して彼が書き残した自伝です。未見の方には是非一読を勧めます。
贈呈してくださったこの著書には、原子力情報資料室の仲間からの添え書きとして「東海の臨界事故で資料室はフル稼働です。高木さんも復活して くれていますが、お身体が心配です」とあります。  
高木仁三郎さん ベルリンで1994年12月

 この写真は高木さんの普段着のものとしてめづらしいかもしれません。いまからちょうど17年前の12月です。クリスマス前のドイツは夜明けが遅く、まだ窓外が暗い小さな台所で、登校前の小学生の息子と一緒に朝食をとられている写真です。この頃の大変お元気な高木さんは、ベルリンでの学会などのあで、気のおけない市民運動の仲間である我が家に、二三日ほど転がり込んで骨休みをされたことが何度かあったのです。 こんなときの高木さんは、いつもの難しい表の顔とは打って変わって、個人的な話もよくされたものです。あるとき、この小学生を相手に「わたし の息子はね、文科系なのに何を考えたのか航空会社のパイロットになりたいと言い出してね」と、そのころ飛行機の模型に凝っていた息子の興味を引いて、「そんな被曝の多い仕事はよせと言ったらね、『オヤジはもっと危険なことやっただろう』と反論されてすっかり参ったよ」とみんなを爆笑させたことがありました。パイロットの被曝が危険なことや、若い頃には実験用原子炉の一時冷却水をバケツで汲み出したりした「バカなこと」について判り易く話されました。 
考えてみるとわたしの息子はまだ出来ていなかった「高木学校」の最初で最年少の生徒であったのかもしれません。高木さんが亡くなってから訊ねてみると「あのおじさん良く覚えているよ。その話は昼飯にお袋の作った蕎麦を食いながら聴いた」と記憶はわたしよりはるかに確かでした。  
 まだいくつかべルリンでの高木さんのことでは、もっと重要なこともあるので順次書き残しておこうと思います。いずれこれらを含めブログで改めて書たいと考えています。

  さて、2000年6月のシュレーダー政権の「脱原発合意」の後の8月に、わたしは東京のご自宅で闘病中の高木さんをお見舞に訪ねました。 この訪日の少し前に「赤緑政権のこの脱原発はゴアレーベンの最終処理場試掘中止についても中途半端であり、裏切りだ」と大いに怒ったゴアレーベンの住民たちが、トラクターを連ねて大挙してべルリンへの政府中枢へデモをかけました。その時はまだまだ大変にお元気てあった長老のマリアンネ・フリッチェンさが大演説をやったものです。見ればトラクターに兵糧として持って来たジャガイモ袋が積んであります。反原発運動のロゴのあるその麻袋をひとつマリアンネさんからもらいました。この袋を高木さんへのお土産にしたのです。それをお渡しながら高木さんに当時のドイツの政治情勢と元気な反原発市民運動の様子を報告して、大いに笑談したものです。高木さんの癌も末期にさしかかり、まもなくホスピスに移られる少し前のことでした。
そのときいきなり「病気の原因が若い頃の被曝であると考えていますか」と問いますと、ゆっくりとした「それだけはね、科学者としては言えないのだよ」と緊張した声が返ってきました。笑顔が消え、わたしを見つめる悲しみをたたえた彼の表情と眼差しを決して忘れないでしょう。自分にこそ厳しい市民科学者の重い言葉であったのです。  

以下は、阪神大震災の後に高木さんが専門誌に寄稿された論文です。15年前にすでに現在の事態の到来と、今認識を怠ると、これから起こる未曾有の破局事態も完全に見通されていることが、この短い論考でもよくわかります。
今回初めて国会に設置される事故調査員会での、事態認識の前提となる見解になってほしいものです。そうなれば高木さんの笑顔もよみがえるでしょう:

『核施設と非常事態 —— 地震対策の検証を中心に—— 』 「日本物理学会誌」 Vol.50 No.10, 1995 
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0002195281

1 件のコメント:

  1. 高木先生も若い頃には実験用原子炉の一時冷却水をバケツでくみ出した。
    そんな若気の「バカなこと」は、科学者なら誰でも持ちうる。
    未知の新技術への栄光に盲目になっての行為は知の誘惑だ。

    ロスアラモスの核開発研究の初期を描いた映画を観た。
    砂漠の中の兵舎といった研究室の中では遮蔽もX-Ray検査くらいのもの。
    不慮の事故では研究者の一人は素手で装置に触れてしまう。
    その後の細胞から死に逝く様は事件に忠実であろう。

    米国の核実験映像では、家畜や家屋をピカと爆風が襲う。
    広島長崎の投爆映像も公開されている。

    驚愕と恐れ、それでも、未知の技術獲得の憧憬は止みがたいものなのだろう。

    「怖い物見たさ」
    好奇心のパンドラの箱の最後に現われるのは「後悔」ではないか。
    「希望」がまさに希なる望みとなった今。

    「バカなこと」から賢明なことへと人類は進まなければならない。
    「食卓にあがった放射能」を目の前にして生きなければばらなくなった。
    高木先生亡き後、著書が真実を語っている。

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